-序章

 

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八重瀬町近辺に人の痕跡が確認できたのは、今から約2万年前の旧石器時代。町南部

に位置する雄樋川河口付近から約1万8千年前の化石人骨

「港川人」

が発見されており、

それ以降も雄樋川周辺から海岸線にかけて先史時代の遺跡が確認されたことから、断続

的に人の往来があったと考えられます。 

 

 12世紀以降になると、本格的に農耕がおこなわれるとともに、海外貿易も活発に行

なわれました。県内各地にグスクが造られ始め、按司と呼ばれる有力者が現れお互い勢

力を争い、一つの国家として統一されていきます。 

 この時代、八重瀬岳周辺や町西部の小丘陵上にも遺跡が確認されており、人々が農耕

に適した内陸部の平地まで居住地を広げていったことが分かっています。また、町内に

もグスクが築かれ、それぞれの按司が周辺地域を支配するようになりました。中でも「し

ものよのぬし」と呼ばれた八重瀬グスクの按司は中国との貿易も積極的に行なっていた

記述が残っています。 

 

 三山統一後は、首里王府に組み込まれ東風平間切・具志頭間切として番所が設置され、

按司掟に代わって地頭代が置かれ、科律・刑事・民事・行政等の法規を交えた間切・村

内法の実施によって、間切に対する王府の統制が図られていきました。王府と間切の往

来は、公の文書の伝達によって使われた「宿次の道(宿

すく

みち

)」が利用され、東風平・具

志頭地区も「南風原宿」の順路(南風原→大里→佐敷→知念→玉城→東風平→具志頭)

の一部となりました。具志頭地区では、日常生活の中で海との関わりが深く、海浜域と

集落を結ぶ道を「海道(うみみち)

」と呼んでいました。 

 18世紀初頭は、町中央に流れる報得川を改修して、東風平一帯の水田に灌漑施設を

設置し、米の大増産を図るなど、現在の八重瀬町の礎ができました。 

 廃藩置県後、1880年(明治13年)行政区の編成が行なわれると、東風平に島尻地方

役所が設置され、一時期15間切の事務を監督指導する政治の中心となりました。 

 1908年(明治41年)沖縄県島嶼町村制に基づき間切が廃止されると、

「東風平村」

「具

志頭村」が誕生しました。 

 1923年(大正12年)には、沖縄軽便鉄道が敷設され国場~糸満間が開通し、東風平

村には世名城駅・東風平駅・屋宜原駅の3駅が置かれ、1945年(昭和20年)3月まで

利用されていました。 

 

 1945年(昭和20年)の沖縄戦では激戦地となり、多大な被害をうけました。日本軍

は、具志頭地区から八重瀬岳、与座岳を経て現糸満市国吉に至る最後の防戦を敷いたが、

米軍が具志頭地区~東風平地区富盛を結ぶ線に進出し、特に八重瀬岳や玻名城、仲座等

5.歴史